回顧2008〜中央線・青梅線の一年〜最終回

 体調不良により1日延ばしてしまったが、きょうで最後。

1位:さようなら、201系H1編成

 1月23日、朝起きると雪が降っている。びっくりして準備もそこそこに家を出た。途中、四ツ谷でH2編成とすれちがった。この日は朝から仕事に行かねばならず、時間の猶予は30分ほどしかない。雪の中の201系の雄姿を一度だけでも撮れれば……と思い、神田駅のホームに立った。
 前日までの運用から推測すると、その30分の間に201系が来る可能性はきわめて低い。この時点で残っているのはすでに6編成。ダメでもともと、とカメラを用意すると、いきなり見えてきた黄色いヘッドライト。まさか、と思った。最初にやってきたのはどう見ても正真正銘の201系だ。夢中でシャッターを切った。
 そして、この電車の編成札に書かれていた番号は「1」。結局この日に撮れた201系はこの1本だけだったが、それでも大満足だった。

 鉄道ファンは「トップナンバー」が好きだ。201系の場合は、そのトップナンバーの「重み」が格別なのだ。中央線という首都圏の重要路線の通勤需要を20年以上にわたって単一の車両形式で支えてきたという実績が、201系にはある。1月11日にH1編成が11H運用に入ったのは、前日までのローテーション通りであり単なる偶然だが(写真左、信濃町)、当時の11Hは朝に通勤特快、夜に河口湖行きという花形運用であり、単なる「ぞろ目」以上のインパクトがあった(写真右は同13日、荻窪)。

 そんなH1編成も、先が長くないという噂は伝わってきた。年が明けるとH6編成を皮切りに、2007年のダイヤ改正で組み換えが行われたH編成にも廃車回送の魔の手が伸びてきた。最後に残るのがH4とH7だというのは鉄道雑誌などでも明らかにされており、いよいよH1にも「年貢の納め時」が迫ってきていた(写真左は1月5日、新宿。右は同10日、三鷹)。

 最後の1ヶ月間も、H1編成は分割の絡むH運用を淡々とこなし続ける。ダイヤの乱れでT運用に入ってしまい、レアな「快速三鷹行き」にも入ってみたりした(写真左は1月14日、高円寺)。そして28日、高麗川・武蔵五日市帰りの23Hが、いよいよ最後の運用と思われた。日中は青梅線内の往復ばかりの地味な運用だったが……(写真右、中神)

 28日の夜になって複数の要因でダイヤが乱れ、結局H1は豊田に帰れず武蔵小金井に泊まることになった。翌29日が本当の最後の運用。午前中に豊田へ帰るべく、69T運用で最後の朝ラッシュに挑む(写真左は中野)。その折り返しが、いよいよ最後の営業運転になった(写真右、四ツ谷)。

 豊田に帰ったH1は、その日のうちに組み替え作業が実施され、本来の編成に戻ったようだ。この時点では、すべての車番が「1」である東京寄りの4両については処遇が決まっていなかったようで、高尾寄りの6両は31日に長野へと廃車回送される。私は、「日本三大車窓」とスイッチバックで知られる姨捨でお見送りした。ただただ悲しかった。

 時は流れて6月。201系青編成の廃車回送がいよいよ幕を閉じようとしているこの時期に、H1にも動きがあった。豊田に残っていた4両のうち、1号車を除く3両が、青3編成と一緒に廃車回送された(写真左は6月19日、高尾。右は猿橋)。1月に組み替えた意味も結局なく、豊田には「クハ201-1」だけが残ることになった。今月になって留置場所は変わったものの、クハ201-1は野ざらしのまま半年が経過し、寂しく新年を迎えようとしている。