最期

 10月17日のラストランは中央線201系の“最後”ではあったが、201系H7編成の“最期”ではなかった。

 ラストラン後に長野を3回訪れた。まず10月22日、H7は基本編成6両と付属編成4両に分割されていた。

 この時点では一部の部品が取り除かれて痛々しい姿になってはいたが、まだ解体線には入っていなかった。
 

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 次に訪れたのは10月26日の夜。

 もう解体作業は始まっていると聞いていたが、基本編成は残っていた。さまざまな場所で夜に撮ってきたH7の「寝顔」を、最後にもう一度撮っておきたかった。一部の部品を取り外されて本来の姿ではなかったけれど、少なくとも、長野から東京の方を見つめ続けている1号車をこうして撮れる最後の機会には違いなかった。

 翌27日は解体作業の様子を遠目に見ることができた。おそらく、私が17日に乗った9号車(モハ200-256)だと思われる。

 
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 最後に訪れたのは今月2日。解体も大詰めで、車両センター周辺では、まともに写真の撮れる場所を見つけることが出来なかった。
 わずか5時間足らずの滞在だったが、ちょうど1号車(クハ201-128)の解体作業が始まったようだったので、信越線長野〜北長野間の車窓から、その様子を見てみた。

 「妙高5号」の車内から見たこの場面が、まさにH7の“最期”だった。すでに1号車の側面は完全に崩されていて、床の一部と前面がかろうじて残っていた。長野に着いてからもずっと私たちの方を向いていた「顔」が、まさに消え去ろうとしていた。あと2両ほど解体されずに残ってはいたが、やはりこの顔が消え去る日というのは、この電車が死に絶える“最期”に違いなかった。
 およそ40分後、次の上り列車の車内から見たとき、もうこの場所に201系の「顔」はなかった。あるのはオレンジ色と焦げ茶色の鉄屑だけだった。
 
 人間ではない、生き物ですらないはずの電車に「生命」を感じるのは、とても滑稽なことかもしれない。世の大多数の人々にとって電車は単なる移動手段だ。中央線では最新鋭のE233系がデビューして3年10ヶ月、もはや201系が来れば「ハズレ」と思う人も多かったはずだ。

 だが、追い続けるほどに好きになり、そこに私は生命を感じるようになった。走っている電車を撮るのは得意でないこともあり、夜間の眠っている姿や出区準備中の光景を撮ることも多かった。201系、ことH7編成に対しては「静」を知ることで、「動」をいっそう感じることができるようになった、そういう自負があった。


東京、7月22日

新宿、昨年12月6日

中野、6月23日

三鷹、5月19日

武蔵小金井、6月22日

豊田、4月29日(右はH4)

拝島、5月15日

河辺、昨年2月26日

青梅、昨年8月2日

高尾、昨年6月22日(右はH4)

大月、昨年7月8日

長野、10月26日

 心のどこかで奇跡を信じていたのかもしれない。今春のダイヤ改正でひとたび身を引き、ひと月半の休養を経て復帰したH7は不死身だと、どこかで思いこんでいたのかもしれない。だが、もう決して戻ってこない。最期を見届けて、ようやく気持ちに区切りをつけてきた。