オレンジの残像

 初めて中央線に乗ったのは、1998年の3月10日だった。当時、私は18歳。大学の合格発表を見に上京した私は、結果を確認して安堵すると、昼下がりの御茶ノ水からふらりと下りの快速電車に乗り込んだ。東京の土地勘ゼロだった私は漠然と、当時読んでいた本の影響などで、杉並方面に住みたいと思っていた。結局そのときは吉祥寺まで乗り、サンロードの入り口にあるマクドナルドで遅い昼食を取ったところまで覚えている。
 

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 自前のデジカメを手にしたのは2005年、26歳になってから。別に趣味のためではなく、仕事で必要に迫られて買ったのだった。ただ、かさ張らないサイズのものだったからいつも持ち歩いていた。例によって出来の良し悪しは棚に上げるとして、こんな写真が残っている。

 2005年10月2日、橋上駅になる前の拝島で撮った写真だ。この日は、八高線川越線103系の最終運転日とされた(実際にはその後も走ったようだが)。奥に見えるウグイス色が103系、手前には切り離し作業をしたばかりの201系がいる。わずか5年前の光景である。
 
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 たとえて言えば、空気のような存在だった。片時も欠かせない存在なのに、いくらでもそこにある。私にとって中央線201系は、そういう大事な存在だった。
 201系を熱心に追っていた方々のブログを拝見すると、みなさん、思いが言葉にならない辛さを乗り越えながら、最後の日を綴っている。そうした方々と肩を並べようなどという気はさらさら無いけれど、私は自分なりに背伸びをしながら、自分に納得のいく形で201系の最後の日々を記録できたような気はしている。

 私は、3年ほど前までは走っている電車の写真を撮れなかった。たぶん写真も自転車の運転や鉄棒と同じように、若いうちに体で覚えるほうが有利にちがいない。言い訳がましいのだが、そういう意味で、20代後半から始めた私がほかの人たちに追いつくことには、もともと無理がある。それでも、201系の記録には寝食を忘れるほど没頭した。こんなに特定の電車に夢中になることは、もう二度とないだろう。電車の写真を撮り続けるのかどうか、それすらも確信は持てない。

 昨年春の、30歳の誕生日の未明、私は三鷹跨線橋にいた。誰もいない跨線橋で、初電として出庫していくオレンジの電車を見つめていた。この残像は、一生忘れない。